令和3年度 東京都精神科医療地域連携事業公開講演会


2021年10月23日(土)15:30〜17:30 昭和大学附属烏山病院 入院棟1F食堂ホール

横井:ここから第2演題に移りますので、音羽先生、よろしくお願いします。

司会 音羽 健司(昭和大学医学部精神医学講座 医師。以下、音羽):

 それでは後半の第2演題に移りたいと思います。

 橋本クリニックの院長でいらっしゃいます橋本大彦先生をご紹介したいと思います。ご経歴です。昭和62年に東京大学医学部医学科を卒業されていらっしゃいます。その後、与野中央病院の常勤医を終えて、東京大学医学部附属病院精神神経科の助手、講師、外来医長を経て、名古屋大学大学院医学系研究科の児童精神医学分野の助教授、名古屋大学医学部附属病院の親と子どもの心療科の助教授を経ていらっしゃいます。平成17年には藍野大学医療保健学部作業療法学科の教授。平成23年より渋谷で橋本クリニックを開設されて、現在は児童精神医学から大人の発達障害まで幅広く診ていらっしゃいます。この道35年の大ベテランの先生でいらっしゃいまして、私も東京大学の大学院のときにご指導を受けたということも経験しております。

 今日は「精神科クリニックにおける発達障害の診療」ということでお話しいただきます。橋本先生、どうぞよろしくお願いいたします。

講演② 『精神科クリニックにおける発達障害の診療』

     橋本 大彦 橋本メンタルクリニック

橋本 大彦(橋本メンタルクリニック。以下、橋本):


 音羽先生、ご紹介をありがとうございました。橋本クリニックの橋本でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

 今日は『精神科クリニックにおける発達障害診療』ということですが、非常に範囲が広くて、どこに絞り込もうかと随分悩みながら、結局こんな感じです。「発達障害:ASD,ADHD,LD」。自閉スペクトラム症、注意欠陥多動症、限局性学習症。日本でいわゆる「発達障害」と言われているこの三つについて、臨床的にどういう基本障害なのか。診断基準に当てはめて診断していく、それはもちろんあっていいんですけれども、臨床では、そういうものよりもう少し病理というものを診ていったほうがうまくいくことがあるので、そういうところをご紹介したい。

 

 それから、この三つが重なり合って見えることが非常に多くて、どうしてなのかということと、重なり合ってもしようがなくて割り切れないものなので、そのあたりもお話ししたい。

 最後に「どのように、「障害」を減らすのか?」と大きなことを書きましたが、これはスライド1~2枚です。

 そんなところでお話をさせていただきたいと思います。枚数は全部で30枚弱です。1枚1~2分で、文字ばかりで申しわけないですが、進めていこうと思います。

 

 ASD(自閉スペクトラム症)の障害内容について、まず「こだわり」というところを見ていきます。こだわりとは何なのかという話です。例えば「私は石を集めるのが好きです。岩石の趣味があります。鉱物を集めています」という話をすると、「こだわりがありますね」と言われてしまった、そういう話が外来であるんですが、本来、ASDのこだわりというのはそういうものではないと思います。

 基本的に何かというと、子どもの頃からずっと診ていくとわかるんですが、1対1対応になってしまいやすいことです。あることを一つ覚えるとそのことで固定的になってしまって、それ以外のものに遭遇してしまうと不安や困惑が生じやすい。ある先生は脳の中にバグが生じるんだと言ったこともあります。ある処理の関数があって、その処理の関数と違うものが入った途端にバグになるんだと言った先生もいますが、そういうことでパニックになる。

実生活では柔軟性の欠如とか強迫的な行動ということになる。

 

 「三つ子の魂百まで?」というのを出したんですが、これはどういうのかというと、今日は知的障害のある子については扱いませんので、こういう課題ができる3歳児ぐらいをイメージしていただきたいんですが、三つカードを出す(スライド4ページ)。「かぶるのはどれ?」と言うと、これと言う。「切るのはどれ?」と言うと、これと言う。「脱ぐのはどれ?」と質問すると、ちょっと考えて、これと言うんです。一旦リセットします。もう一遍カードを出し直して、「脱ぐのはどれ?」と言うと、これと言う。「こぼすのはどれ?」と言うと、これと言うんです。「かぶるのは?」言ったら、これと言ったりするんです。

 つまり、一回それに名前がついてしまうと、そこから切りかえるためには場面が転換しないと難しいんです。そういうのが小さいときに見られます。そういうことが、大きくなる中でもずっと続いていくということが基本障害としてあるわけです。

 

 こういうのもあります。ミカン、バナナ。これはニンジンではなくて大根だったと思います。「この中で仲間外れはどれ?」と言うと、「えーと」と考えて大根を選ぶ。「どうして?」と言うと、「これは野菜だから。これは果物だから」と言います。そのときに転換ができないんですね。形で分けてみようかという視点に切りかえることができないんです。もう一遍リセットして、形でやるんだよということを教えると、今度は全部形でやろうとします。柔軟性がなくなります。

 

 こだわりとはちょっと違うと思われるかもしれませんが、こんなのも小学生なんかでよくあります。「1000+1と1000-1はどっちが大きい?」と聞いてみるんです。こんなものは当たり前ですよね。「+1」が大きいに決まっているんですが、お子さんによっては、まず計算して1001と999という答えを一旦出してから、1001が大きいと答えるんです。つまり、感覚的に「1000」というものが共通していないんです。ほかのいろいろな課題を見てみるとこういうことが見えてくる部分があるんですが、1000+1のときの「1000」と1000-1の「1000」が一緒の「1000」ではないので、それがふえている、減っているというふうにならずに、これとこれ、そこを比べるということになってしまうんです。そういう、かたさというんでしょうか、一旦そういうふうに覚えてしまうと、その処理の仕方で全部やろうとしてしまうということがあったりします。

 

 それから、ASDの方たちは、こだわりとは違う、文脈の欠如の問題があります。よく言う「暗黙の了解の苦手さ」というものです。言葉というものには表現されていない意味があります。「天気は?」と聞かれたら、いつの、どこのといった内容は、その聞いている場面の中にあるわけです。その聞いている場面の中にあるものを酌み取るということが非常に難しい。

 

 最近は「鶴の恩返し」を知っている子たちが少なくなっているんですが、「鶴の恩返し」を味わうには、登場する人と鶴の書いてない気持ちを自然に酌み取れる必要があるわけです。「味わう」と言いましたが、そもそも物語を味わうということ自体、言葉の意味がわからないという子も中にはいます。「味わう」というのは食べ物ではなくてどういう感覚なのか、こういう感覚自体が難しいこともあります。

 

 これは文脈の欠如とはちょっと違うかもしれませんが、「親のつくってくれたおみそ汁」の課題を私は外来でよくやります。親のつくってくれたおみそ汁に、自分でつくったおみそ汁と違うものを感じるとか、見つけるとか、理解するということができないとすごく難しいわけです。

 実はこれは性差があります。男性と女性に聞くと、圧倒的に女性のほうが答えられます。男性に聞くと、多くの男性は大体、つくった人が違うと答えます。隣の奧さんが「何、それ」という感じで見ていたりすることがあります。要は愛情です。この中にいる男性陣は自分がそういうことかと思ってもあまり気になさらないでください。男性はそういう方が多いです。

 ただ、言われたときにわかるかどうか、これはすごく大事なことです。言われたときに、「何、それ。みそ汁に愛情なんかあるんですか」という答えも時々返ってきます。そうなるとこちらもすごく苦しくなります。いろいろなことを伝えていくのに、そういうふうな理解をされる方だなというふうにして、考え考え話をしていかないといけなくなります。

 

これも一つの例として出したんですが、10円玉と100円玉を並べて、「10円玉の下に100円玉を置いて」という課題を出しています。「10円玉の下に100円玉を置いて」と言うと、「下に」「100円玉を置く」という理解がないと、10円玉を動かしてしまう。つまり、10円玉は固定されているわけです。10円玉を持ち上げて、その下に100円玉を置いてほしいんですが、若い人は大体そうしてくれるんですが、年齢が上がってくると、認知症が近づいてくるとこれが崩れて、10円玉を動かしてしまう方が結構多いです。

 発達的にも初期の段階でこの理解がないと、とにかくその操作だけできればいいんだろうと、全体として見たときに10円玉は固定だという暗黙の了解の部分がないんです。こういったことが、発達上、実はちょこちょこあるわけです。ある程度能力があると、そういったことに気づかれないままずっと大きくなってくるんです。

 

 文脈の欠如ということでいうと、「暗黙の了解の難しさ」もあります。言葉には、それぞれの人の社会的経験、自我の成長が反映される。

 例えば、雪が解けたら何になるか。「水になる」。それはそうです。東京の人はほとんどそう答えました。山梨県の人たちに「雪が解けたら何になる?」と言ったら、何人かが「土が見える」と言うんです。要するに歩くときのイメージですね。雪が解けて道が見え始めた。山形県に行ったときに、山形の人たち、先生方に聞いてみたら、「春になる」とみんなあっさり答えます。こういう理屈ではない何かが私たちの生活にはあるんですよね。そういうふうなものが小さいときから難しいし、大人になってもなかなか難しい。

 

 泣いた赤鬼はどうして泣いたのか。そもそも「泣いた赤鬼」の話自体が最近の子たちはみんな知らない。でも「泣いた赤鬼」はなかなかいい話だと私は思います。「友達だった青鬼がいなくなったから」「青鬼の気持ちに気づかなかった自分が情けなかったから」「青鬼を失わないと村人と仲よくなれない偏見、不条理が悲しくなったから」とか、いろいろな見方があるわけです。年齢が上がって自我というものの成長があって、物の見方が広がれば広がるほど、こういうものは広がっていくわけです。そういう成長というもの、気づきが弱いんです。

 

 小学校1年生の教科書を供覧します。具体的にどういうところに出てくるかというところです。「はなのみち」。光村図書の『小学1年こくご』の最初のほうに出てきます。これは非常に難しいです。

 「くまさんが、ふくろをみつけました。「おや、なにかな。いっぱいはいっている。」くまさんが、ともだちのりすさんに、ききにいきました。くまさんが、ふくろをあけました。なにもありません。「しまった。あながあいていた。」あたたかいかぜがふきはじめました。ながい、ながい、はなのいっぽんみちができました。」

 

 何が入っていたんでしょうかという話です。うちに遊びに来た研修医に「何が入っていたんでしょうね」と聞いたら、「先生、書いてないですよ」と言いました。今も立派な精神科医をやっていますけれども、本当にそういうふうに言ったんです。確かに書いてないけれども、何が入っていたのか、ここから読み取りなさい、というのが実は1年生の教科書の最初にあるんです。これ、すごく苦しいですよね。答えとすれば、結局、花の種が入っていたんだという話になるわけですが、確かにどこにも書いてない。

 しかも、「あたたかいかぜがふきはじめました」ということの意味が子どもたちはわからないんです。「暖かい風が吹いてくるってどういうこと?」と言うと、「暖かい風が吹いてくること」と言うんです。季節が変わっていく、「あたたかいかぜがふきはじめました」という微妙な表現です。

 

 こういうところの苦手さというものを小さいときからすごく感じながら、よくわからないと思いながら成長することになる。だけど、結局、丸覚えすることで、先生もそれで済ませていくわけです。覚えるということ自体は1対1でできる形が多いんです。知的障害がなければ大体覚えていけます。そうすると、これはそういう話なんだなということでクリアしていく形になります。こんなところで、まず最初に学校へ行ってつまずく子どもたちがいる、それから成人になってうちのところに来たりするというふうなところがあります。

 

もう一つ、自閉性というものを見ていきたいと思います。自閉性は、他者との共有をしようとすることが少ないという感じであらわれます。他人とのコミュニケーションを楽しまないというふうな話になる。

 実は、こういう子たちの中に、他者も自分と同じように考えている、知っている、感じているといった「誤った」前提があるんです。だから、ほかの人に通じない冗談を言う。相手が興味を持っているかどうか無関係に話題にしてしまう。突然話題を切りかえる。大人になったときに、「ところで」「話は変わりますけど」というふうな前置きなしに話が突然変わる。他者の「常識のなさ」に怒る。自分が常識だと、他者もそうであるはずだというふうなことがあります。

 

 自閉性とは違うかもしれませんが、私たちも、細かい、読めないような小さな文字で情報を詰め込んでスライドをつくってしまうこともあります。えらく自閉的なスライドだなと思ってしまいます。人に見せようとか、人と共有しようということが薄くなると、こういうことをやってしまうわけです。一方的に伝えたいということがあると情報過多になります。

 

「誤信念課題」。この「誤った」前提はどんなところで出てくるかというのを(スライド12ページの)これで時々やります。皆さん、こんなのを見せられたって何のことかわからないと思って当たり前です。わかりませんね。

 この中にクリップを入れてカチャカチャッとやって、「これ、何が入ってると思う?」と言ったら、「チョコ」と答える。あけて、「残念でした、クリップでした」と見せます。「これ、お母さんのところに持っていって何が入ってるって聞いたら、お母さんはどう言うかな」と聞いたら、「クリップ」と言う。そこでお母さんはクリップと知らないということが飛んでしまうんです。自分が知識としてクリップが入っていると知っていたら、お母さんもそう答えるんだというふうになってしまう。

 

 大分前の話ですが、小学校4年生ぐらいの子にそれをやったら、学校の勉強はよくできる子で成績はいいんですが、やっぱりできなかった。「お母さんのところに持っていってやってみて」とやるんです。そうすると、お母さんは「チョコ」と答えた。何でだろうと考える。そこに認知的な葛藤が生じる。自分の認識と他者の認識が違うということに気づくわけです。こういった経験がないとそこの修正がなかなかできなくて、大人になったときに本人がすごくしんどい思いをするということになりやすいです。

もう一つ自閉性ということでいうと、他者との共有ができていると思い込んでしまうというのがあります。視点のずれというものがあるんだけれども、ずれているということに気づかない。

 

 具体的にはどんなところで見ていくかというと、発達の検査の一つに、絵の欠けているところを指摘する課題があります。今日は著作権の関係がないもので一つ持ってこようと思ったんですが、せっかくつくった検査なので、ここで出してしまうとまずいなと思って出さないことにしました。

 アヒルの絵があって、アヒルの足に水かきがない。そこに気づくかどうかということを見ていくわけです。多くの人は気づくだろうということで、実際やってみたら結構気づくんですが、気づかない人もいるんです。全然違うところを指摘したりします。ここらあたりは知識の問題もあると思うんですが、とさかがないとかここに何かがないと言って、ある大学生は手がないと言ったんです。えっという感じになったんですが、ちゃんとした大学生です。

 そういう予想外の答えを出してくるということは、平均的なものと違うところを見ているわけです。そこに気づかないで生活をしてきていたりするんです。

 

 この課題が非常に興味深いのは、最近は言わなくなりましたが、「新型うつ」でこの課題が難しい人が多かったという報告があります。不知火病院の徳永雄一郎先生の報告ですが、論文になっているというよりは、厚労省のこういう内容の研究班の中の報告になっています。その先生が報告しているところで、ある心理検査で欠所発見というものがみんなかなり落ちるんです。その先生はそこで終わっているんですが、「新型うつ」になっている人たちは視点が違うということです。

 

 どう違うか。普通のうつ病は自責的と言います。自分が悪い、申しわけない、こんなにできなくてみんなに迷惑をかけている、みたいなことになるんです。「新型うつ」は他罰的と言われています。周りが悪い、会社が悪い、自分に適切な仕事を与えないのがいけないんだみたいな、そういう視点で主張する人が多かった。私は今も企業診療所で仕事をしていますが、いわゆる「新型うつ」と言われる人たちはそういう傾向の人が多かったように思います。そういう方たちは、自分の問題として物を考えもしない、視点が違うというんでしょうか、自分を中心に物を考える癖がついていたのかなと思います。

 

 もっと言うと、「新型うつ」はどこへ行ったのかというぐらい薄れてしまいました。何だったんだろうという話です。個人的な発想としては、あれは「ゆとり」の産物だと思います。ゆとり教育で本人を認めようというふうにして、社会的な視点を入れない、そこで葛藤を生じさせない。集団の中で自分がどういう立ち位置にいるのかということについて、気づかなくてもいいよといって小学校時代を育てる。あのあたりは、その世代の認識というんでしょうか、気質というんでしょうか、そういうものにかなり影響を与えただろうなと私は思っています。

 

 これは先ほどの「はなのみち」の絵です。これを見せて、「違いは何?」と聞いてみる。「違うところはどこ?」「何が違いますか」、聞き方はいろいろでいいです。そうしたら、「色が違う」とか、「ここが違う」とか、「ここも違う」とか、そういう答えになる子が多いんです。小学校の高学年、中学生ぐらいでも、自閉スペクトラム症の診断基準にはまるお子さんたちはそういう視点を持つことが多い。「季節が違う」というふうな包括的な理解ができない。

 

 田中ビネー知能検査の中でも、ある絵の「この場面を説明して」と言うと、その場面を説明することができなくて、部分だけ言って、全体としてどうかということの苦手さというのがあります。

 それが苦手だったら大人になるまでずっと全部苦手かというと、そういうふうな物の見方があるということをトレーニングしていくと、小さいときにそういう特徴があったASDの方でも結構できる方がいます。そうなってくると、もしそのタイミングで私が会うとわからないし、もちろんほかの部分でも少し弱さをもっていたりするんですが、その方はすごく脱自閉したなというふうに思います。

 

 だから教育というのはすごく大事なんだなと思うことがあります。今の時代に社会的な環境の中で受ける教育的な刺激と、例えば戦後すぐか戦前かわかりませんが、そういうころに子どもたちが育っていた環境で、こういうものをみんなと共有するか、しないかの刺激というのはえらく違っているだろうと思います。じゃあ昔に戻ればいいのかというと、そういう話でもないんですが、そういうところは大人のほうも気づかないといけない。

 

 もう一つ例を出します(スライド16ページ)。「ありがとう、と思う場面はどれ?」。これを見て、ありがとうという場面はどれでしょう。これも外来でよくやります。先ほど、あるものを見たときに1対1の関係だとか、文脈の欠如という話をしましたが、あるものから何をイメージできるのか、広げていけるのかというトレーニングはすごく大事です。

 ありがとうというのは、定型発達というか自然な感じの子たちはほとんど、最初はこれ(上段左)です。その子たちも答えがいろいろあって非常に興味深いんですが、「誰が食べるの?」と言ったら、「この人の子どもとか家族」と抽象化して答える子もいれば、自分と重ね合わせる「僕」と言う子もいる。当然ですが、抽象化の度合いが違うし、情緒的なものも違うだろうし、いろいろな違いはきっとあるんだろうと思いますが、そこまでは私も見ていませんが、そういうのが変化していったりするのは非常に興味深い。

 「その後は?」と言うと、「うーん」となっていくんですが、「よくわからない。これかな」と言って、「これは誰に?」と言ったら、「お風呂をつくった人」となる。えっという答えが出て、その流れで「これ?」と言ったら、「エレベーターをつくった人」となるんです。

 

 みんなとは違う答えが出てくることがあって、それによって、「うちの子どもはそういうところがあったんだ。だったらいくら言ったってわかるわけがないよね」と家族が初めて気づくんです。本人も初めてそこで「お母さんはそう捉えないの?」となる。「答えが100人の中の95人の見方に入っていないよ。外れた5人の中に入ってしまっているから、そこをどうしていくか考えようね」と外来の中で話をしたりします。つまり、障害そのものの気づきというところはどこに手がかりがあるのかという話です。

 

 「成人のASDの治療」。「治療」とざっくり書きましたが、一つは、こだわりからくる情緒的反応は薬物を使わずにやるのはなかなか難しいので薬物療法が基本です。重度の知的障害があって強度行動障害と言われるような方たちについても、私はこの辺のところは小さいうちからがっちりやるようにしています。文脈認知の苦手さに対しては、本人は経験と知識で補っていくしかない。周囲は、暗黙の前提を減らして説明的に対応していく。自閉性については、心理検査などを通して、自分の偏りを把握して、周囲の視点を取り込むように努力していってもらう。

 

 先ほどの加藤先生の話にもありましたが、修正できるものは修正する。修正困難なものは、時にはできないと諦めて、しようがないから「得意なところで勝負する」。ケースワークもやります。私の尊敬する、大分上のある女性の先生は、「発達を診ている子どもの精神科医というのは大体、処方もできるケースワーカーだと思いながら仕事をするのよね」と言っていました。確かにそういう側面はすごく多いと思います。

 

 次はAD/HDの中核症状の話をします。AD/HDの中核症状は診断基準にこんなことがあります(スライド18ページ)。こんなのはどこを見たって書いてありますからどうでもいいです。これをざっと単純に言ってしまうと、うっかりしていて、すぐ飽きて、聞いてなくて、詰めが甘くて、思いつくままで、面倒くさがりで、なくし物が多くて、気が散って、忘れん坊で、これだけ見たら、どうしようという感じですよね。AD/HDの診断の話になるとこういうことしか書いてないんです。

 こういう説明なんですが、臨床的にはこれだけ見て診断すると何か違うんです。何が違うかというと、いいところがあるんです。ここはすごく大事です。うっかりしているんだけれども、部分的に気づきがいい、こだわるとか、すぐ飽きるんだけれども、興味の幅は広い、好奇心旺盛とか、そういうところがAD/HDの方はほぼあると考えていただいたほうがいいと思います。ここがASDの方との違いです。ASDの方のうっかりに対して、部分的に気づきがいいかというと、常にそうではないんです。すぐ飽きるに対して、興味の幅は広くて好奇心旺盛と言えるかと言われると、ASDの方はちょっと違います。ASDの方のうっかり、すぐ飽きるなんかと、AD/HDの方のこれとはちょっと違うなというところです。

 

 それをもう少し説明させていただきます。AD/HDでは「能力自体はあるはず」というふうに私は見ています。ASDの方は、非常に偏った、修正がすごく難しいところがあって、時には欠損みたいになってしまうことがあります。

 AD/HDの方は子どものときにこんな感じです。家の玄関で乱雑に靴を脱いで、いくら言われてもそろえないのに、友達の家に遊びに行くときちんとそろえる。これは私たちもそうですけどね。なれるとやらなくなるかもしれないという感じですね。家では全く勉強しないのに、診療所の待合室など非日常的な場所では妙に集中して宿題を終える。喫茶店に行くと勉強が進むという話があります。図書館に行って自習室で勉強すると進むという方もいます。そういういつもと違うところでやると、ぐっと集中したらできるんです。

 

 初診の最初は、姿勢よく座って余計な発語もないとてもいい子なのに、終盤になるとだんだん、あくびを繰り返して、ゲーム機を取り出して、あちこちさわりまくる。できないのではないんだけれども、それを続けることができない。ふだんは全く掃除をしないのに、やり始めると細かなところまでこだわって徹底的にやろうとする、だから時間がかかって終わらなくなってしまって寝られなくなるとか、そんなこともあったりします。

 

 AD/HDの方はとにかくこういう裏腹のものがすごく多いので、そこを診ていくということです。それをどんなふうに障害として診たらいいのかというのは、学術的にはいろいろなことがあるんですが、私自身は「抑制の障害」だと単純に言っています。

 

不安が抑えられない。そうすると完璧主義的になってこだわってしまう。不安が強くて人見知りになる。逆に、不安が強くて親和的になる、相手のことを気遣うでもないんだけれども、不安だからとにかく人に対して寄っていって、何か話をしないと間がもたないというか、沈黙の間が耐えられないような感じの方もいます。子どもで、AD/HDは人見知りなのに、何で親和性が高いとか矛盾したようなことが出てくるのかというと、こんな感じです。

 注意がコントロールできないと興味を向け過ぎて熱中してしまう、逆に、注意が雑音に向いてしまうと、そこがコントロールできないと気がそれるということになったりします。

感覚でも、AD/HDの子は、すごく暑がりとか、くすぐったがり、ちょっとさわられただけで「わっ」ということが多いですね。

 

 「除外診断(小児)」。こういうお子さんたちは結構いて、子どもですと、こんなことがずらずらと出てきます。細かいことは省きますが、一つだけ大事なのは何かというと、自閉性障害でAD/HDかどうかなんていうんじゃない、臨床的には一番厄介なのが「文化」です。

 

多動な文化というのは学級崩壊すると出てきます。もう一つ、家の中がすごい状況になっている家庭もあるんです。そういうのを抜きにして、本人1人だけ持ってきて、AD/HDだ、多動だ、不注意だというふうに言ってしまうと、その子そのものを見誤ります。文化的背景はすごく大事です。

 

 特にクラスの状況はすごく大事だと思っています。学級崩壊というのはほんとにモグラたたき状態です。何とかしてくれないか、どうしたらいいのかと呼ばれて行ったことがあるんですが、たかだか20人ぐらいのクラスで、先生が5人入っているんですが、みんな立ち歩きです。すさまじかった。その中で1人だけ、じいーっと座って授業を聞いている子がいるんです。この子は絶対おかしいと思いました。そういう世界なんです。みんながそういうふうにしているんだったら、そうでないとおかしいようなところもあって、「文化」はすごく大事です。

 

 大人だとどうなのかというと、大人も除外診断はいろいろあるんですが、一番重要なのは睡眠時無呼吸症です。これは絶対見落としてはいけない。睡眠時無呼吸症は睡眠がちゃんととれていないので、昼間、眠いから集中できないんです。大人の場合は、うつだ何だという話もありますが、それよりも実は最近は睡眠時無呼吸症のほうが結構深刻だなと思います。

 睡眠時無呼吸症なんだけれども、しゃきっとしないからということでコンサータを出します。コンサータを出すと食欲が落ちます。食欲が落ちると体重が減ります。体重が減ってくると睡眠時無呼吸症が改善してきます。「よくなりましたね」と言って、何のことはない、睡眠時無呼吸症の治療をしていただけで、肥満の治療をしたらよくなりましたと。だけどAD/HDの治療をしたような気になっている。そんなことにならないように、大人の場合は睡眠時無呼吸症がすごく大事です。

 

 これは『日本経済新聞』の2017年3月23日の紙面にあって、おもしろいなと思って出しています。読みます。「「学校は嫌い」。東京都新宿区が2008年から開いている何とか教室で小学4年の何とか男児がつぶやいていた。同区は何とかが何とか人を超す全国最多の自治体。教職員の7割に何とかの教え子がいる。何とか子は授業に集中できなかったり、つい手が出て級友とケンカになったりする。だが「何とかうになると、友達ができて落ち着く子がほとんど」と区教育委員会の三宅慶進指導主事は話す。」という文章です。

 ここに入れてみました。「「学校は嫌い」。東京都新宿区が2008年から開いているADHD教室で小学4年の多動の男児がつぶやいていた。同区はADHDが何とか人を超す全国最多の自治体。教職員の7割に多動児の教え子がいる。不注意や多動のある子は授業に集中できなかったり、つい手が出て級友とケンカになったりする。だが「コンサータやストラテラをのむようになると、友達ができて落ち着く子がほとんど」と区教育委員会の三宅慶進指導主事は話す。」と読めてしまうんですよ。こういう文脈で考えてしまいやすいんです。

 

 だけど本当は何だったか。正解はこれです。「「学校は嫌い」。東京都新宿区が2008年から開いている日本語補習教室で小学4年の中国系男児がつぶやいていた。同区は在留外国人が4万人を超す全国最多の自治体。教職員の7割に外国人の教え子がいる。言葉の壁にぶつかる子は授業に集中できなかったり、つい手が出て級友とケンカになったりする。だが「しばらく補習を続け日本語が分かるようになると、友達ができて落ち着く子がほとんど」と区教育委員会の三宅慶進指導主事は話す。」という話です。

 

 勉強がわからないということとか、コミュニケーションで何かの障害が生じているという場合はこういうふうになるんです。それを薬で何とか抑えてしまおうというふうに考えてしまうと、根本的なところはどこかに飛んでいってしまって、そのときだけ一時的には落ちつくかもしれないけれども、大もとのところは全く手がつけられない。つまり、こういう子たちはAD/HDばかりではないということです。そういう視点も持っておかないといけない。

 

 ADHDの臨床上の「障害」というのも考えています。ADHDは「人の気持ちを考えられない」のか。外来で、小さいときからADHDで、「あなたは人の気持ちを考えられないから」とよく親から言われていて、別のところでもそう言われてきたような子たちがいるんですが、違うんですよ。考える前に、判断、行動しているだけなんですよ。考えられないということと、考えられるんだけれどもそれを使っていないということは、大きな差があります。こういうことも本人にちゃんと伝えながら、使うように持っていかないといけないんです。

 

 ADHDは、計算障害、空間の認知障害があるのか。この辺はLDとどっちがどっちという話でわかりにくくなることが多いんですが、ADHDは二つのことに注意をバランスよく向けることができないので、一つに注意が向くと一つを忘れてしまうんです。そうするとLDみたいになるわけです。「100から7を引いて」と言うと、「100引く7は93」。「また引いて」と言うと、「あれっ、幾つ引くんだっけ」。「幾つから引くの?」と言ったら、「93」。「幾つ引くんだっけ」というのが、すっと抜けていった。同時に二つのことというのが難しいんです。

 

 外来で子どもとの遊びでこういうのをやります(腕を伸ばしながらグーをパーにする動作を左右交互に行う)。認知症の方でもよくやるといいます。これを逆にするとすごく難しいです。なぜかというと、赤ちゃんは生まれながらにこうです。人というのは、腕が伸びたときは手を広げて、持ってくるときは握るんです。片方だったら、これと反対の不自然な動きをできるんです。それを両方でやろうとするとすごく難しくなります。

 そういうふうな両方に注意を向けるということがうまくできない。そうすると、今は算数の話とか動きをやりましたが、例えば体育の授業でも困るわけです。運動会なんかでもすごくしんどい思いをしながら育ってきていたりする。そういうところを、どんなふうにしたらLD的な感じにならないでやれるのかというところです。

 大人の場合でもそうですが、子どもたちはADHDの生活上の障害はどういうところにあるのかという話は、大体この話をします(スライド24ページ)。

 

 時間の管理、時間の見積もり。中学生なんかでも、「次の試験期間はいつ?」と言うと、お母さんに向かって「いつ?」と聞くんです。自分の試験期間なのに、自分の問題として全然認識されていない。ぼやっとしか聞いていなかったりするわけです。最近の学校はすごく丁寧で、試験範囲も何ページから何ページまで、どこそこと、全部書いた紙を1枚渡してくれます。合理的配慮ですけれども、時に、本人が自分でそれをちゃんと意識して構えるということが抜け落ちるんですよね。まあ、よしあしです。

 金銭管理、お金の見積もり。あったらあっただけ、すぐ使ってしまう。

 物の管理。片づけ、ごみ捨てができない。自己管理。依存の防止、衝動性の抑制。

大人でも子どもでも、こういったことがちゃんとできるようになりましょうという話をよくします。診断基準に書かれているようなどうのこうのというよりは、これが生活上で一番問題になってくることということになるでしょうか。

 

「ADHDの治療」。治療としてはとにかく薬物療法です。身についていない行動を身につけるには時間がかかる。身につけるのにかかるコストを下げるという意味で、これは非常に有効だと私は思います。

 生活環境を改善する。いつでも、どこでもというのは、子どものストレス耐性をすごく下げます。こういうタイプの子どもたちにとって、今はすごく成長しにくい時代になっています。ゲームがそうです。いつでも、どこでも、スマホでひょいと見られて、ゲーム機がある。私の時代はテレビの「巨人の星」を見逃したら泣いても笑っても見られない。「あー」と言っても、「しまった」と言ってもだめです。『少年マガジン』、その号を買い損ねたらもうないんです。今なんてネットでひょいひょい、いつでも見られる。今の子どもたちは我慢するということがすごく少なくなっています。大人にとっては便利ですけれども、子どもにとってはよろしくない、そういう時代になっています。

 それから親など周囲の行動の改善です。時に親の不安から来る怒りを抑えるために親も服薬してもらいます。子どもを見ていて親のほうが不安になってがみがみ言ってしまうわけです。環境としていいことはないです。

 

 LDの話に入ります。ここでは算数障害の話だけですが、書字障害などほかにもいろいろあります。どんな感じで出てくるか。数え上げしかできない。数を読むことしかできない。二つの数の関係がわからない。数の順序が覚えられない。数に大小があることがわからない。数を足す、引くの意味がわからない。「単位」がわからない。いろいろな流れの中で出てきます。

 中学生でもやるんですが、高校生ぐらいになると、「時速10キロで30分進んだらどれだけ進みますか」という問題を私の外来で出します。ほかにもいろいろなパターンの問題があります。そうしたら「300キロ」という答えが結構出てきます。えっと思うんですが、そういうところでよくわからずに学年が上がっていってしまっている子たちが実は意外に多い。それでも「時速」をちゃんと知っていればいいんですけれども、その前にそのずっと手前のところでひっかかる子たちがたくさんいるんです。

 

 これ(スライド27ページ)は算数1年生です。7月は「どっちが多い?」というのがあります。12月になると「どっちがいくつ多い?」というのがあります。たった5カ月で「どっちがいくつ多い?」というのが出てきて、教科書の中で半ページぐらいでさらっと流れています。数のLDのある子たちは、「どっちがいくつ」という、これが難しいんです。「どっちがいくつ」と言われたときに意味がわからないんです。「どっちが多い?」「いくつ多い」はわかる。皆さん、何でと思うでしょう。だめなんです。どっちかしかできない。この文章の構文がわからないと言ったほうが正しいかもしれません。

 「3と4 どっちがいくつ多い?」と言ったら、「4が多い」。「4は3よりいくつ多い?」と言ったら、「ひとつ多い」。1個ずつはわかっているんですが、組み合わせたら意味がわからない。

 これもこの間来た小学校2年生の女の子にやって、これもよくやるんですが、自閉症圏の子も結構ひっかかるんですが、LDの子たちもひっかかります。「これは幾つ?」と言うと、「15」。「これは幾つ?」と言ったときに、もう想像がつきますよね、「50」。「510」と言った子もいます。「60」と言った子もいます。「何で?」と言ったら、「ここに5があって、5、0で、10があるから」と言って一生懸命考えるんですよ。数のLDの子たちは、こうやって必死になって数の世界を理解しようとしています。

 

 これ(スライド28ページ)はちょっと持ってきたんですが、小さくて、これではあれですから、下の二つだけ紹介します。「せみが24ひきいます。くわがたはせみより17ひきすくないそうです。くわがたはなんびきいますか」。「すくない」から引き算にしようとしたんですが、24引く17は「13」と答えた。違うでしょうという話になって、後で直されて「7」になったんです。

 もう1個行きます。「おかあさんがたこやきを31こやきました。これはきのうより6こすくないそうです。きのうはなんこやいたのでしょう」。これは足し算になっているんですが、もともと引き算になっていたんです。この子は31引く6が「35」になっていました。先生はこれを見て、きのうは6個多いんだよねということで、文章の意味の理解ができていないんだと思って、足し算だよと教えたんです。それで足し算だとわかったから「37」に直した。

 

 これは学校の先生がこの子は何がわかっていないかが全然わかっていないんです。何で31引く6が「35」にふえるんでしょうか。簡単です。6から1が引けるから、ここに「5」を置いたんです。その子にとっては数を「引く」という意味がよくわからないんです。特に繰り下げなんていうとよくわからない。

 先ほどのも実はそうです。24引く17が「13」だったのは、7から4が引けたんです。この世界でずっと計算をやっている。全然わかっていない。引き算の意味がわからない。LDというのはこういうところがあります。ちょっと算数が苦手というレベルの話ではないです。実はすごく大変なんですね。LDの話はここでとめます。

 

 ASDとADHDとLDは、ごちゃごちゃになりやすいです。何でかというと、ASDにはLD的要素があるんです。「非言語性学習障害」という言葉があります。非言語性、つまり言葉になっていない部分の学習が弱いというところでいうとLD的なんですね。

 ADHDにもLD的要素があります。一つに着目すると、ほかを忘れる、無視する。計算間違いが多くなってくるというのは、頭の中に保持できないのでLD的になってきます。これが対人面で出ると「マイペース」になって、ASDの自閉性のようにも見えたりします。

 ASDは、意味の取り違えが「ミス」とか「不注意」というふうに世の中で受け取られやすい。ミスが多いと言われるんだけれども、ミスではなくて、意味の取り違えです。だけど、そういうふうに見られます。

 LDも、書字の問題、計算間違いが「不注意」と受け取られて、ADHDのように見えます。

 本当に全部きれいに分けられるかというと、必ずしもそうではなくて、どうしても分けにくい、どっちもごちゃごちゃになっているというものがあります。臨床というのはそういうものです。だけれども、一つ一つ、少しでも整理をしていくということはすごく大事です。

 

 最後のスライドの一つ手前に行きます(スライド32ページ)。「「障害」は仕方ない」と書きました。括弧をつけた「障害」、つまり、その人がある状態にあって、その状態が「障害」になるということ自体はある程度しようがない。生活のしにくさです。生きにくさにはつながるので「障害」ではあるわけです。

 だけど、眼鏡のない時代なら、近視も乱視も「障害」です。私ももうひどい老眼とひどい乱視があって、眼鏡がないと全然見えない。こんなに大変なものだったのかと改めて知りました。文字のない時代なら「書字障害」はないですよね。そういう時代に生きていればよかったのにという子たちもきっといると思います。「1、2、3、沢山」の時代なら「計算障害」はないですよね。じゃあ、それを使わなければいいのか。コミュニケーションのない社会なら「コミュニケーション障害」はない。これはなかなか難しいです。そういう社会はないと思います。

 

 あるものが「障害」になるか、ならないかというのは、それぞれの時代によっても違う。もちろん、伸ばしていって「障害」にならないようにしていくのがいいんですけれども、そこで生きていくしかないわけですから、「障害」になったときはそれでしようがない。

 

 「最後に:「障害」を減らす働きかけ」。発達期に少しでも伸ばしましょう。社会的なかかわり、集団での経験を積む。これはすごく大事です。他者の視点を考える上で読書は重要です。ASDでもADHDでも読書はすごく大事です。診ていて、本をよく読む子はこういうところが修正しやすいです。成人であれば、今さら伸ばすといっても難しいので、負荷を減らして、できないんだったら、それを前提に環境をつくろう、使える道具は使ってしまおうということになります。計算できないんだったら電卓を使えばいいやという話です。

 発達期に、いつでも、どこでもの便利さを減らす。特にADHDのことですが、成人には便利だけれども、子どもの成長期には有害なものがあるということです。

 

  発達期に、数や形、文字を扱う具体的な経験を積みましょう。成人には電子マネーは便利ですが、子どもがSuicaでピッピッとやっていて、何をやっているのか全然わかっていないんですよ。これでお金の管理をやりなさいと教えたって無理です。

 つまり抽象化されていく過程です。子どもから大人になるまで、私たちは頭の中でどんどん抽象化を進めていく。具体的なものがなくても、頭の中だけでイメージできるようになっていくわけです。例えば「管理」という言葉にはいろいろな意味があります。すごく抽象的な言葉です。何か物をどうするという話ではない。いろいろな意味がある。

 そういう抽象的な言葉や概念を具体的なものから積み上げていくのが私たちの「発達」ですが、子どものところで具体的なものが抜けると、全ての人がそうなるわけではないでしょうけれども、抽象化していくプロセス自体に難が生じる子たちがいるということです。そういったことを意識しながら育てていくということは親も社会も面倒くさいんですが、「障害」を減らすという意味では必要なんだろうと思います。

 

 外来の中でこんなことを考えながら臨床をさせていただいているということで、紹介させていただきました。ご清聴、ありがとうございました。(拍手)

音羽:橋本先生、どうもありがとうございます。非常に具体的でわかりやすく解説していただきました。ご質問がある方もいらっしゃると思いますので、お願いいたします。

参加者○○○○:今日はおもしろい話をいろいろありがとうございます。2点ほどお伺いしたいことがあります。1点目は、ASDはどうしても他者と視点がずれてしまう、包括的な視点で見られないというところがあるんですが、薬に頼らずに訓練で改善できるところがありましたらそれを教えてください。

 もう1点。ADHDで、他人の気持ちを考える前に行動してしまう、それは他人の気持ちがわからないのではなくて、考えようとしないと。私も、考える癖をつけたほうがいいといろいろな人から言われるんですが、どういうところに注意しながら考えていく癖をつけたほうがいいかというところを教えていただけると助かります。

橋本:後者は、ADHDの方がどういうふうに身につけていこうとするかということを考えたとき、多くの場合、まず働きかけるのは、ゆっくり話そうということです。相手が何かを言ったときに、すぐ返してしまうことをせずに、コンマ(0.)何秒か置いてごらんなさいということを言ったりします。その間がとれるか、とれないかだけでも全然違うんですね。そのときにコンマ何秒かでちょっと間を置くだけで、頭の中でふっとスイッチが入ったかのように、ほかのことも出てきたりします。そういうトレーニングをしようという話をしています。

 

 一つのことに対してどんな考え方があるか、こんな考え方があるかということをふだん使っていない子だと、どうしても出てきにくくなるんです。でも、言われれば、ああ、そうかとわかるんです。そういったものを提示しながら、使ってこなかったものを使う練習ということもしてもらいます。つまり、考える間ということと、考える癖ということです。そこのところを意識してもらうというふうにしています。

 それから、ASDの方の包括的な視点というんでしょうか、文脈を考えるとか、そういったことをどうトレーニングしたらいいのかという話になると、実は一人一人大分違います。そういうことをこちらがあまり働きかけなくても勝手に変わっていこうとする人もいるんです。

 

 これはある成人の方だったんですが、部長職になったときに下からパワハラだと言われたというんです。それで会社のほうから行ってこいと言われたということで相談にお見えになったんです。

 何でパワハラになっているのかという構造を聞いてみると、自分がこういう仕事をしてほしいと思ったときに、相手の状況を全然考えずにどんどん指示を出すんです。その人自身は仕事ができる人という評価で、周りを潰しながら昇格してしまうようなタイプの人です。そういう評価を得ている人だったんですが、ちょっとASD的なところがあって、全体の状況を考えない、相手の気持ちについても全然考えてこなかったという人です。この人は、ADHDで考えないのではなくて、本当に抜け落ちタイプの人です。「親のつくってくれたおみそ汁」の課題では、愛情の意味がよくわからないというタイプの方です。

 ただ、現実的に、こういう状況であれば相手はこういう反応をするだろう、ということについてはすごく学習するんです。まず、自分が部下に声をかけたときに部下がどういう反応をするかということを考えてみてほしい、シミュレーションしてみてほしいということを話してみました。

 そうしたら、その方は、ここでやると、そうするとそこで中断するよな、それで後でまた嫌な文句を言われるだろうな、というふうになったんですが、何で文句を言われるのかという話とか、そこでいろいろ話し合った中で、自分としてはわからないけれども、相手はそういうことで嫌な思いをするんだということはわかったから、電話中とか仕事を一生懸命やっていそうなときは声をかけないようにしたと。

 

 先ほどちょっと出しましたが、文脈を変えるときに「ところで」「話は変わるけど」というふうな言葉を一つ入れるという、これがないんだという話をしましたが、その言葉を入れてもらうようにしたんです。それだけでパワハラだと言われることはなくなったようです。

 包括的に見るということができるようになったわけではないんですが、たったそれだけのことですが、そういうハウツーを身につけることで、少なくとも状況としては大分改善したということは言えると思います。

 

 それから、言葉の意味を広げたりするのは、もっと小さいときからやっておかないと無理だと思っています。大人では厳しいですね。ただ、ある限定的な状況であれば、この意味はこういうパターンもある、このパターンもあるということを覚えてもらうことはできます。ある限定的な環境の中であれば、幾つかのパターンを伝えて、その中のどれなのかということを、指示を受けたときに本人が「これですか」と確認することで、お互いのストレスを減らす工夫は可能だろうと思います。こんな答えでよろしいでしょうか。

音羽:橋本先生、ありがとうございます。いろいろ質問があるかと思うんですが、お時間もございますので、公開講演会の後半もこれで終了とさせていただきたいと思います。最後に大きな拍手をお願いいたします。(拍手)

(終了)